MEMORIAM ― 柴犬
そら
2008.4.12 - 2023.11.20 / 15歳7か月
日記も、手紙も、遺さなかった。
遺ったのは、家族3人の記憶だけ。
そらは、なにも書き遺しませんでした。
遺ったのは、赤い首輪と、欠けたごはん皿と、
ときどき家族の口から出てくる「そらはさぁ」という話だけ。
このページは、その「そらはさぁ」を、
ひとつずつ聴いて、かたちにしたものです。
そらの15年7か月
名前は、帰り道の空から。
2008年6月21日、雨。高橋家がそらを迎えに行ったのは、梅雨まっただ中の土曜日だった。車の後部座席、段ボールの中でずっと震えていた小さな柴犬に、家族はまだ名前をつけていなかった。
「帰り道で、ちょうど雲が切れたんです」――お父さまはインタビューで、そう話してくださった。
候補は3つあって、車の中で妻と揉めてたんですよ。ちょうど信号待ちで空を見上げたら、雨がやんでて。「そら」って、後ろの席から娘が言ったんです。まだ2歳やのに。それで決まりです。あの子、名前を呼ばれる前から「そら」やったんやと思います。
お父さま(60代)
はじめての散歩は、9月。玄関から10メートル進んだところで座り込み、そのまま動かなくなった。抱えて帰った。以降3日間、リードを手にすると玄関の靴箱の陰に隠れた。
それが1週間後には、リードを見ただけで玄関でくるくる回るようになる。「あの子は、慣れるまでは全力で嫌がるけど、慣れたら全力で好きになる子でした」――お母さまの言葉です。
ドアの前が、定位置だった。
2011年、長女のゆいさんが生まれた。心配された赤ちゃん返りのような行動は、まったくなかったという。そらはただ、ベビーベッドの下に潜り込んで動かなくなった。
そこから12年間、そらの定位置はゆいさんの部屋のドアの前だった。中には入らない。ドアの前で、外を向いて寝ている。
中学のとき、部活でめちゃくちゃ怒られて、部屋で泣いてた日があって。ドアの向こうで、ずーっと「ふぅ」って鼻から息を吐く音がするんです。入ってこようとはしない。ただ、いる。あれがいちばん、救われました。いま思うと、あの子は入っていいタイミングをちゃんと分かってたんやと思います。
ゆいさま(長女・10代)ご家族3人に別々にお話を伺うと、同じそらの話でありながら、まったく違う顔が出てきました。お父さまにとっては「朝5時半に起こしにくる、うるさいやつ」。お母さまにとっては「台所でずっと足元にいる、じゃまなやつ」。ゆいさんにとっては「ドアの前で待っていてくれる子」。
どれも本当のそらです。このページには、その3つとも遺しました。
そらの、こんなところ
鳴きかた
吠えることはほとんどなかった。要求があるときは「ふすっ」と鼻から息を出す。散歩に行きたいときだけ、高い声で一度「くぅん」。
好きだったもの
ささみ、干し芋、洗濯したてのタオル。父の脱いだ靴下の匂い。冬の日だまりと、夏のフローリング。
苦手だったもの
雷、掃除機、宅配便のインターホン、動物病院の駐車場(着いた瞬間に分かる)。あと、なぜか赤い傘。
おやつの隠し場所
もらってすぐ食べない主義。ソファの右端のクッションの下に運んで、あとで思い出したように取りに行く。忘れて発掘されたことが3回。
怒られたときの顔
目を合わせず、顔だけ真横に向ける。反省しているのではなく「聞こえていない」という体をとる。しっぽだけが正直に下がる。
お決まりだったこと
誰かが帰ってくると、玄関に走ったあと、なぜか一度リビングまで戻ってから、もう一度玄関へ。15年間、毎回。
いちばん長く歩いた道。
兵庫に越してから、そらの日課は河川敷のコースになった。朝はお父さまと、夕方はお母さまと。土曜の夕方だけは、ゆいさんも入れて3人と一匹で、いつもより長い遠回りをした。
制作にあたって、ご家族に地図を広げていただき、そらが必ず立ち止まった場所を教えていただきました。3人の記憶が完全に一致したのは、たった1か所だけでした。――橋の手前の、桜の木の下。
あの桜の下で、必ず一回止まって、こっちを振り返るんです。何かあるわけでもないのに。「行くで」って言うまで動かへん。いまでも私、あそこで一回止まってしまいます。誰もおらんのに、「行くで」って言うてます。
お母さま(50代)
最後の朝のこと。
2021年の春から、そらの後ろ足は少しずつ弱っていった。階段を上らなくなり、お父さまがスロープを作った。角度が急すぎて失敗し、滑り止めが足りずにまた失敗し、3回目でようやくそらが自分で上った。
2023年11月19日の夜、そらは久しぶりに自分から立ち上がって、玄関まで歩いた。誰も呼んでいないのに。しばらく玄関マットの上に座って、それからまた自分でリビングに戻ってきた。
翌朝6時40分。家族3人に囲まれて、そらは静かに息を引き取りました。
あの夜、玄関まで歩いたのは、たぶんお別れやったんやと思います。あの子にとって玄関は、みんなが帰ってくる場所やったから。……こんなこと、誰に話しても「そうかもね」で終わってしまうんですけど。ちゃんと聞いてもらえて、こうやって残ることが、いまはうれしいです。
お父さま(60代)
いつも家族の左側を歩いていたから。
そらのいた日々








そらへ
あんたがおらんようになって、家がこんなに静かやとは思わんかった。
朝5時半に起こされへんのが、いまでも慣れません。
目が覚めるたびに、ちょっとがっかりします。
桜の木の下で、まだ「行くで」って言うてます。
あんたはたぶん、まだ振り返ってると思うから。
15年と7か月、うちの子でいてくれて、ありがとう。
高橋家一同
あの子の話も、
聴かせてもらえませんか。
このページは、ご家族3人へのインタビューだけを頼りにつくりました。
日記も手紙も遺していない子でも、これだけのものが遺ります。
※このページは架空の家族「高橋家」と柴犬「そら」によるサンプルです。実在の人物・団体とは関係ありません。
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